英文解剖学

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英文の分析的考え方の誤読 比較級と否定

 

 

上記の英文の解釈が話題になっており、参考として紹介されていた古谷専三先生の解釈と私の解釈が異なっていたため、取り上げることとしました。

 

(2021年3月12日 加筆修正)

(2021年3月13日 中原先生と第3の解釈の比較・結論部に加筆修正)

 

原文はWilliam Hazlittの“On Going a Journey"です。関連する部分を引用します。

 

 

One of the pleasantest things in the world is going a journey; but I like to do it myself. I can enjoy society in a room; but out of doors, nature is company enough for me. I am then never less alone than when alone.

"The fields his study, nature was his book."

 

I cannot see the wit of walking and talking at the same time. When I am in the country, I wish to vegetate like the country. I am not for criticizing hedge-rows and black cattle. I go out of town in order to forget the town and all that is in it. There are those who for this purpose go to watering-places and carry the metropolis with them. I like more elbow-room and fewer incumbrances. I like solitude, when I give myself up to it, for the sake of solitude; nor do I ask for

"a friend in my retreat Whom I may whisper, solitude is sweet."

 

The soul of a journey is liberty, perfect liberty, to think, feel, do, just as one pleases. We go a journey chiefly to be free of all impediments and of all inconveniences; to leave ourselves behind, much more to get rid of others. It is because I want a little breathing-space to muse on indifferent matters, where Contemplation

"May plume her feathers and let grow her wings, That in the various bustle of resort Were all too ruffled, and sometimes impair'd"

William Hazlitt On going a journey

 

 

◾️古谷先生の解釈

古谷先生の解釈は以下の通りです。

いったん戸外に出れば、自然だけで道連れは充分だ。しかもその場合には、元来一人だけでいる場合とまったく同様になんの気兼ねもいらないのだ。(だから素晴らしいのだ。) 英文の分析的考え方18講―英文解釈・古谷メソッド・完結篇 古谷 専三

 

 

 

◾️古谷先生によるthenの解説

また、"I am then never less alone than when alone"の省略を補うと、"I am then never less alone than I am (alone) when I am alone"となります。ここで"never less alone"と"than l am (alone)"の"alone"の意味は一致せねばなりません。

一方、"when alone"は「独りでいる時に」という意味になります。ここで、中原先生や私の解釈のように"when alone"を「外出先で(旅先で)独りでいる時に」と解釈できるかどうかが問題になりますが、古谷先生は次の理由で不可能だとしています。

 

○thenが「その時(外出時)」という意味だとすると、thenは"I am then never less alone"という主節にかかっており、than以下にはかかっていない。

 

一見もっともらしく見えますが、thenには前文までの内容を要約する際に使われる用法もあります。

 

7. ADVERB [ADVERB with cl] You use then to introduce a summary of what you have said or the conclusions that you are drawing from it. [written] This, then, was the music that dominated in the mid-1960s. By 1931, then, France alone in Europe was a country of massive immigration. Then definition and meaning | Collins English Dictionary

しかし、そもそもthenが「戸外に」を指していたとしても、thenが文全体、あるいは"never less alone than when alone"全体にかかっているとすれば、「戸外にいるときには、『"when alone"の時よりも"less alone"になることはない』」という解釈は成立するのではないでしょうか。 例えば、以下の例では、thenが「コルビー氏の若い時」を指していますが、"than"節の"when hard pushed"も主節と同じ時を指しています。構造的にも、また文脈的にもHazlitの文章と類似しています。

 

In Mr. Colby's younger days he scorned obstacles and laughed at difficulties. He then never seemed happier than when hard pushed. Catalog Record: A tribute to the memory of Gardner Colby | HathiTrust Digital Library

 

たしかに、thenが(than節以下も含めた)文全体、あるいは"never less alone than when alone"全体にかかっている形と酷似した用例は「時を表す副詞+never+比較級」といった限られた状況でないと意味的に生じにくいこともあり、反例を見つけるのがなかなか難しいのですが、だからこそ雑に強過ぎる主張をするのは考えものです。 古谷先生の全ての解釈に論理的な説明をつけようという態度は、筆者も共有しています。しかし、自戒も込めて、自分の解釈に都合の良いように「強過ぎる主張」「根拠のない文法的ルール」を主張しないように気をつけるべきだと思います。

 

◾️aloneについて

再び本文に戻ると、古谷先生は"never less alone "を「干渉されない、遠慮がいらない、気兼ねがない」と捉えているようです。 たしかに後続の段落を見るとなんの支障もなく旅できることを1人旅の利点として捉えていたり、旅の本質を「自由」としており、古谷先生のaloneの解釈に通じるところはあるのかも知れません。 しかし、"alone"を「干渉されない」はともかく「遠慮がいらない、気兼ねがない」に拡大解釈するのは、少なくともこの英文についてはあまり根拠がないように思われます。

古谷先生はおそらく該当箇所について、"nature is company enough for me"を受けて「自然という仲間は、人間の旅仲間と違って気を使う必要がない」と解釈したのでしょう。意味的にありえないとまでは言いませんが、自然が旅仲間だというのは比喩なのですから、「一人旅をしている時は、(家で)独りでいる時と同じくらい気兼ねがない」などというのは当然すぎてわざわざ言うまでもないことです。そもそも、aloneは気兼ねがないというより、せいぜい「独り(で干渉されない)」程度の意味だと思われますからなおさら当然すぎます。原文の"The fields his study, nature was his book."という自然を称えるような部分とのつながりもはっきりしません。

古谷先生の著書での説明は、文法的・意味的になぜ訳のような解釈になるのかについて、「aloneが誰にも気兼ねがなくて自由な心境」を表すという拡大解釈が既成事実化され、古谷先生の解釈の内容に関する説明やそこから敷衍した内容の説明に終始しています。ことがらの説明といえば聞こえはいいですが、なぜその解釈をすべきなのかという観点が抜けているため、妄想を聞かされているような気持ちになります。 通例通り、また著者が参考にしたであろうCiceroの名言やことわざに則り、私はaloneを"isolated"と捉えます。"never less alone"のaloneは「孤独・あるいは孤独感」を、"when alone"は「他の人間の同行なく1人でいること」と考えるべきでしょう。

 

◾️中原先生の解釈

中原先生本人の訳は、以下の通りです。

しかし、戸外では自然が私にとって十分な伴侶となってくれる。)戸外では独りでいる時に最も孤独を感じないのである。

 

 

この場合、単純に考えると  「『人間の同行者がいない場合("when alone")と比べて孤独感が少なくなる(less alone)状況』はない」といっているので、

「人間の同行者がいない場合の孤独さ>人間の同行者がある(特定の)場合の孤独さ」

となるような特定の状況がない

つまり

「人間の同行者がいない場合の孤独さ≦人間の同行者がある(あらゆる)場合の孤独さ」

となるように思われます。

中原先生の解釈は、「最も孤独を感じない」としているため、一歩進んで「人間の同行者がいない場合の孤独さ<人間の同行者がある(あらゆる)場合の孤独さ」となります。

いいかえると、人間の同行者がいるときほど、孤独を感じない時はない(least alone when alone)ということです。

 

実際、出題文で著者は室内では他人との交際を楽しむことができる人間だが、旅においては自然がよき道連れになると主張していますし、原文の次の段落以降をみても、むしろ旅においては(人間の)同行者がいない方が好ましいと主張しており、中原先生の解釈「最も孤独を感じない」に合致するように思われます。

 

また、中原先生の説明にもあるように"never less alone than when alone"はキケロの文章中に出てくる表現を参照しており、バイロン卿のように"least alone"と言い換えることもあるようです。

I am never less alone than when alone, nor less at leisure than when at leisure. Quoted from Scipio by Cato, and recorded by Cicero (“De Officiis,” III. 1), “Nunquam se minus otiosum esse, quam quum otiosus, nec minus solum, quam quum solus esset.”

Repeated by many authors since, as by Gibbon, “I was never less alone than when by myself.”—Memoir, 117.

Seneca says, in his Sixth Epistle, “I am never more in action than when I am alone in my study.” “Never less alone than when alone.”

ROGERS: Human Life. “In solitude where we are least alone.”

BYRON: Childe Harold, III. 90 Scipio Africanus. S.A. Bent, comp. 1887. Familiar Short Sayings of Great Men

 

◾️第3の解釈 当然私も中原先生と同様の解釈は検討しました。その上で、私は問題文において中原先生と論理的には類似していますが、少し重点の異なる解釈を思い付きました。

I am then less alone(孤独感) than when alone(人間の同行者がいないと言う意味での物理的な孤独)

 

「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ>人間の同行者がある(特定の)場合の孤独さ」

 

I am then never less alone than when alone ここでneverはnot+everなので否定を強調して 「(when alone以外の)どんな状況でも独りの時よりもless aloneなことはない」 と言う意味になります。 ここで、 「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ」が最低レベル(自然という同行者がいるので、全く孤独ではない)であるとすると、 「『人間の同行者がいない場合(when alone)』は明らかに孤独ではないのだから、『人間の同行者がある(特定の)場合』に孤独である程度が独りの時を下回る』ということはあり得ない。」 となります。

つまり、原文は「たとえ人間の同行者がいたとしても、(一人旅では自然という同行者があれば孤独感を感じずにすむので)、独りの時よりも孤独が薄れる余地がない」と解釈できます。

 別の書き方をすれば、「外出時には、人間の同行者がいないからといって、同行者がいる場合よりも孤独になるようなことはない」となります。

 

(2021年4月6日追記)

かなりややこしい解釈と思われるかもしれませんが、「外出時に同行者がいない場合には、同行者がいる時より孤独に感じるだろう」という常識的な反応を想定して、「いやいや、外出時には「『自然という同行者』がいるのだから、全く寂しくありません。一人でいるからといって、人間の同行者がいる時と比べて寂しくなることはないですよ。」という反論だと考えると理解しやすいのではないでしょうか。

 

■最終的な結論

 

中原先生の解釈( When I am outdoors, I am least alone when alone)

しかし、戸外では自然が私にとって十分な伴侶となってくれる。戸外では独りでいる時に最も孤独を感じないのである。


第3の解釈(I am/feel not all the more alone for being alone outdoors) 

「著者にとって旅の同行者は自然があれば充分であり、(一人旅でも自然という同行のため孤独感はまぎれる、または孤独ではなくなるので)たとえ人間の同行者がいたとしても一人旅より孤独が薄れることはない。」

よりシンプルに書くと

「著者にとって旅の同行者は自然があれば充分であり、人間の同行者がいないからといって、同行者がいる場合よりも孤独になるようなことはない」

 

 

①「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ">"人間の同行者がある(特定の)場合の孤独さ」という状況の存在が否定されます。

数学や論理学のように命題①を否定すると下の②が導かれます。

②「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ≦人間の同行者がある(あらゆる)場合の孤独さ」

 

中原先生の訳では「戸外では独りでいる時に<<最も>>孤独を感じない」とされているため、どちらかと言うと下の③"least alone"(②でいうと等号が消えて<になる場合)という含意がありそうです。

③「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ"<"人間の同行者がある(あらゆる)場合の孤独さ」 つまり、「人間の同行者がいない場合の方がむしろ孤独ではない」という点に重点が置かれています。

比較級の表現では、論理的に考えれば②("≦")となりそうな表現でも、実質的に③("<")のように等号のない最大・最小表現になることがあります。Ciceroの名言自体も"least alone"として、「最も孤独ではない」という解釈を取ることが多いようです。

ただし、前文の"Nature is enough company for me" 「自然は私にとって充分な同行者だ」という発言からすると、"="の場合を排除して「人間の同行者がいない場合の方がむしろ孤独ではない」とまで言い切る中原先生の解釈は、前文までの文脈を超えて少し強すぎる主張ではないか、という違和感があります。

 

第3の解釈の場合、 「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ」が最低レベル(自然という同行者がいるので、全く孤独ではない)であるとすると

④「『人間の同行者がいない場合(when alone)』は明らかに孤独ではないのだから、『人間の同行者がある(特定の)場合』に孤独である程度がそれを下回る(less alone)ということはあり得ない。」 という形で①を否定することになります。視点を変えると、「外出時には、人間の同行者がいないからといって、同行者がいる場合よりも孤独になるようなことはない」となります。

論理的には④は②の特別な場合(外出時に「人間の同行者がいない場合(when alone)」も「人間の同行者がある場合」も孤独ではない)になります。

言い換えると、第3の解釈(④)では、中原先生の解釈(③)と異なり、②で=となります。どちらも孤独ではないという意味で、ですが。

 

結局どちらが正しいのでしょうか。ネイティブと議論した結果、中原先生やCiceroの名言と同様、"When I am outdoors, I am least alone when alone"と捉えるべき(③「人間の同行者がいない場合(when alone)の孤独さ<人間の同行者がある(あらゆる)場合の孤独さ」)という結論になりました。 第2・第3段落を確認すると、著者は人間の同行者がいる旅よりも、自由な一人旅を好むことを強調しています。したがって、前文の"Nature is enough company for me"を含めた先行文脈と比べると「人間の同行者がいない場合の方がむしろ孤独ではない」というのはやや強い表現になってしまいますが、著者はCiceroの名言を持ち出すことで、「私は孤独で自由な一人旅を好む」という点に重点を置いたということです。

古谷先生や第3の解釈ではなく、中原先生の解釈が正しいと思われるわけですが、やはり最後の一文は文脈からはやや唐突な感じがあります。

 

元のことわざを知らず、与えられた文脈に合わせようとして、第3の解釈に近い解釈をする人も多いのではないでしょうか。