英文解剖学

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「サミング・アップ」行方昭夫先生の誤訳? 接続詞asと「might have 過去分詞」の用法

(2021年9月12日 「as=同時」に関する妥当性についてのご質問を受け、行方先生の訳に関する考察も含め、記事を大幅に書き直しました。 時間的な「同時」の解釈と区別するため、「as=並列・対比の用法」と明確化しました。)

 

 

ある方からSumming Up (Sumerset Maugham 1938)の46章の第一文について質問を受けました。このasの役割はなんでしょうか?引用部分だけでなく、下のurlから46番のエッセイ全体を読んでみてください。(テキスト検索で「46」と入れるとすぐに見つかります。

 

Chapter 46

I AM a writer as I might have been a doctor or a lawyer. It is so pleasant a profession that it is not surprising if a vast number of persons adopt it who have no qualifications for it. It is exciting and various. The writer is free to work in whatever place and at whatever time he chooses; he is free to idle if he feels ill or dispirited. But it is a profession that has disadvantages.

 

The Summing Up by W. Somerset Maugham, from Project Gutenberg Canada

  

このエッセイはモームの自伝なのですが、特に46章では職業としての作家論がテーマとなっています。二文目以降では作家という職業は非常に魅力的なので、作家としての資質がない人も作家という職業を選んでいること、作家業の具体的なメリットが説明されています。その後は転じて、作家業のデメリットを説明する部分に続きます。

 

背景知識として、Maughm自身は、若い頃から作家業を志していましたが、法律家の家系に生まれ、過去に医学生として働いたこともあり、医者や弁護士という職業は現実的にとりうる選択肢だったようです。また、弁護士として働いたことはありませんでしたが、軍医(見習い)として働いたことはあったようです。

Chapter6

WHEN I BEGAN to write I did so as though it were the most natural thing in the world. I took to it as a duck takes to water. I have never quite got over my astonishment at being a writer; there seems no reason for my having become one except an irresistible inclination, and I do not see why such an inclination should have arisen in me. For well over a hundred years my family has practised law

 

 

Chapter 17

I did not want to be anything but a writer, but I was much too shy to say so, and in any case at that time it was unheard of that a boy of eighteen, belonging to a respectable family, should adopt literature as a profession. The notion was so preposterous that I never even dreamt of imparting it to anybody. I had always supposed that I should enter the law, but my three brothers, much older than I, were practising it and there did not seem room for me too.

 

 

 

◾️接続詞asの用法

"as I might have been a doctor or a lawyer"は"as S V"の形になっているため、asは接続詞だと考えます。接続詞asには複数の意味がありますが、基本的には「同時性」をイメージすれば覚えやすいと思います。ここでは逐一用法について説明することは避けますが、佐藤ヒロシ先生の「and とasの底力」などの参考書にわかりやすくまとめられています。

 

Wisdom 英和辞典第4版やOED 第二版を参考に、接続詞のasの用法の中で、形と文脈から明らかに当てはまらないものを除くと

○様態

○並列・対比

○理由 が残ります。

ちなみに、「並列・対比」の用法についてはOED 第二版の定義を参考にしています。

d. In antithetical or parallel clauses, introducing a known circumstance with which a hypothesis is contrasted, or beside which a new circumstance is placed: as on the other hand; even as; whereas; whilst.

例文は以下の通りです。

The King's own religion was suspected, as his brother's was declared.

Burnet Own Time 

 

It has its prejudices, to be sure, as which of us has not? Mod. If I had been present, as I was not, I should have asked an explanation.

Thackeray Bk. Snobs (1869)

 

If I had been present, as I was not, I should have asked an explanation.

Modern Usage

さらにasの用法について絞り込むためには、might haveの意味についても考察しなければなりません。

 

 ◾️"might have been"の解釈

Wisdom英和辞典第4版の語義を参考にすると、今回の"might have been"には以下の3つの用法の可能性があります。

deontic(義務的)な用法としては

○過去の本来すべきことに関して「してもよかった(のに)」

 

epistemic(認識的)な用法としては

○過去の推量 いわゆる「直接法」の"might have been"

○過去の非現実に関する推量 いわゆる「仮定法」の"might have been"

 

◾️deonticな用法 

deonticな用法(義務的用法)として、「過去の本来すべきことに関して『してもよかった(のに)』」というものがあります。そのままだと当てはまりませんが、「(本来)しても良い」という評価を踏まえた解釈を模索してみましょう。

 

・as=「理由」の解釈

epistemicかdeonticかは措いたとしても「自分は本来医者や弁護士になっていたかもしれない/なってもよい(環境や状況にいた)」と解釈すれば「理由」のasと合わせて、「自分は本来医者や弁護士になっていたかもしれない/なってもよい(環境や状況にいた)、それゆえに作家をしている。」となる余地があります。ただ、この場合医者や弁護士になり得たことと、作家になったことの因果関係や相関関係が不明なので、エッセイの残りの部分で説明されていることが期待されます。確かに、作家として成功するだけの勤勉さがあれば他の職業でも成功できるようと書かれていたり、本業を別に持っていた偉大な作家について言及されていますが、「もしかしたら、私は医者や弁護士をやっていたかもしれない」を「現在作家業を営んでいる」理由とするには、あまりにも因果関係が薄すぎます。

 

・as=「様態」in the manner の解釈

話し手から見た「評価」が関わるdeonticな解釈とasの「同様に」という用法は合致しないように思われます。

 

・as=「並列・対比」の解釈

「並列・対比」の意味で捉えると「私は本来医者や弁護士になってもよかった人間だが、(現実には)作家でもある。」 となります。自己紹介や自慢でしょうか。

軽い対比の意味として「私は(本来)医者や弁護士になってもよかったのだが」と解釈することは可能かもしれません。しかし、46章全体を見てもMaughamが「自分は本来医者や弁護士になれる人間だった」と自分の高い能力を誇示したり、作家になったことを後悔したりという文脈では無さそうです。後述の行方先生の訳を検討する部分でも少し取り扱います。

 

故に、私はdeonticな解釈を採用しません。

  

◾️epistemicな用法

●過去の推量

モームが医者や弁護士になる可能性があったこと、一応医者にはなったが弁護士にはなっていないことという背景を踏まえると、単に「弁護士や医者だったかもしれない」という直接法の過去推量ではなさそうです。

 

●過去の非現実に関する推量

過去の非現実に関する推量はどうでしょうか。

「(モームの)過去の人生において(作家業以外の)別の選択をしていれば」という「非現実の条件」が隠れていると考えると、第一文のas節が帰結説になっているということはあり得そうです。しかし、この条件の下でも、「過去に医者や弁護士だったかもしれない」というのはよくわかりません。「異なった人生を送っていれば過去に医者や弁護士となっていたかもしれないが、その場合でも最終的には作家業をしていただろう」ということでしょうか。自伝なので(非現実の)過去を振り返った発言というのもあり得る解釈だと思いますが、帰結節も「過去」でなければならないのでしょうか?

 

実は、過去の非現実の条件に対応する現在の帰結について、mightだけでなくmight haveが使用できるのです。

詳しくは当ブログの下記記事をご覧ください。

薬袋善郎 ミル『自由論』原書精読への序説への疑問③ 過去の反実仮想に対する現在の事実に反する帰結でmight+動詞の原形は不自然? - 英文解剖学

 

したがって、帰結節においては『過去』に拘らず、"I might have been a doctor or a lawyer"を「(過去の人生の岐路において異なった選択をしていれば) 医者や弁護士になっていたかもしれない」と解釈する方法はありそうです。

 

*注意  "I might have been a doctor or a lawyer"については、隠れた条件節が過去の非現実だとしても、指し示す時間によって4つの可能性があります。1つ目は単なる現在形に対応するがとりわけ「現在」にフォーカスしていないatemporalなもの、2つ目は現在形に対応するが特に「今」を示す現在形に対応するもの、3つ目は過去形に対応するもの、4つ目は現在完了形に対応するものです。実際問題、ここで1と2を区別するのはあまり意味がないかもしれません。また、2つ目と4つ目については、"by now"を補った場合には、区別する必要はなくなります。

 

1. I am a doctor or a lawyer

→(If I had chosen a different path in the past)

I might have been a doctor or a lawyer.

 

2. I am a doctor or a lawyer (now)

→(If I had chosen a different path in the past )

I might have been a doctor or a lawyer (now)

 

3. I was a doctor or a lawyer (sometime in the past)

→ (If I had chosen a different path in the past)

I might have been a doctor or a lawyer (sometime in the hypothetical past)

 

4. I have been a doctor or a lawyer

→ (If I had chosen a different path in the past)

I might have been a doctor or a lawyer

 

might have beenを「現在より前」の帰結として捉えたとしても、4つ目の解釈のようにmight have beenをいわばhave beenという現在完了形に対応するよう「(作家業以外の道を選んでいた場合に) 現在までに医者や弁護士になっていたかもしれない」という解釈はあり得そうです。しかし、本文でも書いたようにあえて帰結節において過去(現在以前)に拘る必要はなさそうです。

"I am a writer"と"I might have been a doctor or a lawyer"を対比して、本文では1または2の解釈をとっています。 いずれにせよ隠れた前提が「過去の非現実な条件」に関わっているために、帰結節でmight haveが使われたと解釈しています。

 

この場合、

・as=「理由」の解釈

「deonticな解釈」で説明したのと同様、このエッセイには「作家になったこと」と「医者や弁護士になっていたかもしれない」の因果関係・相関関係を明確に示唆する部分がありません。

 

・as =「様態」in the (same) manner/way の解釈

「様態」はどうでしょうか。

「私は過去の人生の選択次第では医者や弁護士を職業にしていたかもしれない。その場合と同様に私は職業としての作家業を営んでいる。」と解釈できませんか?

では「同様に」の具体的な内容は何か。先述したように、「医者・弁護士」は「モームが実際に選ぶ可能性があった職業」ですが、専門性を持った資格業であることにも注目してください。つまり、医者や弁護士というのは誰でもなれるわけではなく、一定の資質が必要だと社会から認識され、結果として資格や免許が必要になる職業となっています。また、モームは、昔の作家と違って現代の英語圏の作家は専業でも生活費を稼げると述べています。「作家業は特に資格も必要なく誰でもなれると思われがちだが、実は勤勉さなどの『作家としての資質』が必要であり、経済的にも成立する、『医者や弁護士』に劣らないれっきとした職業だ。そして私は、過去の人生の選択次第では職業として『医者や弁護士』を営む可能性もあったが、現実の私はその場合と同様に職業として作家業を営んでいる」と言いたいのではないでしょうか。

そうした観点で第二文目を読むと、

It is so pleasant a profession that it is not surprising if a vast number of persons adopt it who have no qualifications for it.

 とあり、上記の解釈は文脈に合致していると言えそうです。

 

・as = 「並列・対比」の解釈  

「私は医者や弁護士になり得た人間だが、同時に(現実には)作家でもある。」  「私は医者や弁護士になり得た人間だが、それにも関わらず(現実には)作家でもある。」     epistemicな解釈について、「対比」の意味を強くとると、「医者や弁護士になることもできたのに、敢えて作家を選んだ」という意味になります。冒頭で引用した17章の記述で分かるように、若い頃には家柄と比べて文学の道という進路希望を恥ずかしく思っていた可能性はあります。しかし、作家になりたいという思いも若い頃から一貫しており、後悔しているわけではないのは明らかです。第二文では作家は人気のある仕事だという事実を前提として話が進んでいますし、「医者や弁護士になれたのに・・・」という後悔や誇示の意味合いはないと思われます。

 

一方、並列や軽い対比「医者や弁護士になる可能性もあったが、実際には作家である」に関しては直ちに棄却することはできません。

 

OED第二版の定義を引用します。

d. In antithetical or parallel clauses, introducing a known circumstance with which a hypothesis is contrasted, or beside which a new circumstance is placed

"I might have been a doctor or a lawyer" が"a known circumstance" であって、"I am a writer"が仮定として対比されているとか、「新しい状況」として並列されているかというと疑問です。冒頭で引用した6章・17章の文からもわかるように、医者や法律家という選択肢の言及が全くなかったわけでもありませんが、作家であるということはそれ以上に既知であり、何度も繰り返されてきた情報だからです。

as節の表す同時性から、「as=理由」の意味でもas節に既知の理由がくることが多いことを考えても、上記の定義は納得できます。とはいえ、OED 第二版の定義も完璧ではないかもしれません。文脈についても考察してみましょう。

 

並列や軽い対比の解釈で「私は作家です。(医者や弁護士になる可能性もありましたけどね。) 作家というのは愉快な職業なので・・・」という書き出しは散文的ですが、軽いエッセイですからこういう書き出しがあり得ないとは言えません。とは言え、職業としての作家論について語っている(46章二文目以降や末尾も参照)エッセイの冒頭として、「医者や弁護士になる可能性もありましたけどね。」というのは矛盾しないまでも、やや関連性が薄く、エッセイ全体としてのまとまりに欠けるとは評価しました。文脈判断については、次節の「◾️行方先生の解釈」も参照してください。

 

ところで、プロのwriterと/doctor/lawyerの話を対比する意図があると仮定すれば、「軽い対比」の解釈も私の「様態」の解釈とほぼ一致します。ただし、46章ではアマのwriterやプロのwriterもまとめてwriterとして言及しているため、第一文のwriterを「プロの作家」として、専門職としてのdoctor/lawyerと比較していると言えるか、というと怪しくなります。(下記引用文参照)

It is easy to say that the writer should have an occupation that provides him with his bread and butter and write in such leisure as this occupation affords him

 

「様態」の解釈であれば、「立派な専門職として同様に」というニュアンスを表現していると考えられます。

 

◾️行方先生の解釈

東大名誉教授で日本モーム協会の会長である行方昭夫先生をご存知でしょうか。行方先生が「サミング・アップ(岩波文庫)」という新訳を出しているとのことで、該当部分を確認してみました。

問題の文は、「私は、もし作家でなかったら、医者や弁護士になっていたであろう。」と訳されていました。

 

行方先生の訳は、「並列・(軽い)対比」の解釈だと推定されますが、元の英文の語順を温存したために、「作家になっていなければ、医者や弁護士になっていただろう。」となっています。文脈を考慮せず、第一文だけを見れば「並列・対比」の解釈としては綺麗な日本語訳になっていますが、本文と関連のない「医者や弁護士」に重点があるかのような訳であり、エッセイ全体から遊離していると思います。

 

might have については、「作家でなかったら」という非現実の条件を補っているようですが、「might have 過去分詞」が示唆している「過去の非現実の条件が及ぼす影響」を意識しているというよりは、帰結節が(現在までの)過去を指し「(現在までの)過去に医者や弁護士にならなかった」と解釈しているようにも思われます。

 

46章では、職業作家として金銭的に満足な報酬を得ることは難しく、生活のために他の職業について余暇として作家業をすべきかという問題について論じています。英語圏では読者が多いため職業作家が成立する余地があるとMaugham はいいます。ジャーナリストや書評家になると作家としての仕事に悪影響を及ぼすこともあり、作家というものは執筆中以外の時にも全身全霊で作品に取り組むため、作家業で報酬を獲る職業作家になるべきだという結論になります。この内容を踏まえ、Maughamが「自分は作家にならなければ医師や弁護士になっていたかもしれない」と自分が実際になり得たであろう職業の選択肢を提示したということでしょうか。しかし、この解釈はasを「並列・対比」と捉えることで、先述の解釈の下線部を見逃しています。

 

作家業は特に資格も必要なく誰でもなれると思われがちだが、実は勤勉さなどの『作家としての資質』が必要であり、経済的にも成立する、『医者や弁護士』に劣らないれっきとした職業だ。そして私は、過去の人生の選択次第では職業として『医者や弁護士』を営む可能性もあったが、現実の私はその場合と同様に職業として作家業を営んでいる

 

もちろん、このニュアンスを綺麗に訳出するのは困難であり、表面上は逐語訳でなくとも、全文の意味を汲んだ上で自然な日本語に訳している可能性はあると考え、翻訳版46章の残りの部分も読みましたが、私には翻訳版の第一文だけが遊離しているように見えます。残念ながら、行方先生の訳は誤訳ではないでしょうか。

 

皆さんは行方先生の訳を正確な訳、悪訳、誤訳のどれだと思われますか?

皆さんも原文または翻訳をご確認して考えてみてください。

 

*注意

念のために書いておきますが、万一行方先生がここで誤訳をしていたとしても、それだけで「誤訳をしたから英語力や読解力がない」と批判するのはフェアではありません。どんなに優秀な人間でも時には初歩的な間違いすら犯すことがあることを考慮すれば、エッセイを翻訳した際に誤訳が混ざったとしても当然と言えます。

当ブログが他人の誤訳(疑惑)を指摘する第一の目的は「誤りの訂正」ではありません。当ブログでは、あまり一般の学習者に知られていないこと、学習書に書かれていないことを解説したり、文脈を理解しなければ誤った解釈をしてしまいがちな文章を共有することで、ブログ読者が「無意識のうちに見過ごす誤読を減らすこと」にあります。一定レベル以上の学習者・教師・翻訳家の誤読には、学ぶべきことが多く、題材として利用させていただいているにすぎません。単に「誤りの訂正」だけが目的の場合には、記事を書くのではなく直接指摘しております。

むしろ、皆さん自身が「日常で出会った誤読しやすい英文、よくわからない英文を(著作権に反しない範囲で)SNSなどで共有・解説すること」を推奨しています。

 

◾️追記

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当記事に関連して上記の用法が言及されていました。

当記事で問題になった英文の解釈と直接は関係なく、あくまでついでに補足された情報だと思われます。しかし、「この用法は問題の英文に適用できないのか?」と、気になる方もいるかもしれないので補足しておきます。

 

引用されているジーニアス英和辞典の例文は

It was warm for April yesterday. It might have been summer.

as if ... と同じような用法ですが、「might have 過去分詞」単独で過去のことについて「まるで〜かのようだ」と述べる際に使われます。辞書の補足にもあるように、本来はいわゆる「仮定法のmight」の用法と推定され、「〜と言ってもいいくらいだ」と考えるのが覚えやすいでしょう。現在のことについて言及する際には「 might+動詞の原形」を使います。

 

ついでに接続詞asの用法についてもう一点。ifだけでas ifと同じ使い方をすることがありますが、asだけでもas if と同じような使い方をすることがあります。実際的には "S looks as if ..."のような限られた表現でしか見ないと思われます。

Merriam Websterの辞書には以下の英文が引用されています。

He looks as he had seen a ghost. (The death of Wallenstein by Samuel Taylor Coleridge)

 

www.merriam-webster.com

 

 

おまけで補足した2つの用法を今回の英文に当てはめてみましょう。後者(as =as ifについては前者(might have 過去分詞)とのコンビネーションと見なすこともできるかもしれません。

前者については「私はまるで(過去に)医者や弁護士であったようだ、そしてそれと同様に私は作家業を営んでいる。」となり、意味が通りません。

後者については「まるで(過去に) 医者や弁護士であったかのように作家業を営んでいる。」 となりますが、「まるで元医者や元弁護士かのように作家をしている」というのは文脈に合致しません。

したがって、これらの用法は今回の英文46章第一文には明らかに当てはまらないと思われるため、本文では割愛しました。

 

もしも、この第一文が "I am a writer as I might be a doctor or a lawyer." であれば上記の用法について詳しく検討すべきだったでしょう。