英文解剖学

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ミル自伝・思考訓練の場としての英文解釈の誤訳?(修正版)

(2020年10月30日 ■多田先生の解釈のロジック に追記しました。)

(2020年5月2日 解説を全面的に書き直しました.)

 

思考訓練の場としての英文解釈という書籍があります.オリオンという通信添削の先生であった多田正行先生による書籍です.レベル・分量ともに多いため,ほとんどの高校生には不要だと思いますが,一般的な受験英語を身に着けた大学生~社会人にとっては非常に有用な書籍です.

筆者も1・2巻を使用しましたが,学習者が間違えやすいところを狙い撃ちされ,毒舌でぼこぼこにされたり,「ゲバ棒」などの言葉が飛び交い,教材の英文の思想の浅さを批判するような過激な余談も楽しく読んでいました.

また,いわゆる受験英語を一通り身に着けた方は,意外に語句・文法解説が非常に充実していると感じると思います.読者層のレベルに応じた解説の丁寧さがあるため,英語力を効率的に上げるためにはおすすめです.

 

思考訓練1巻の演習問題19では,ミル自伝の第2章の引用が課題文となっています.

下線部の"any other than"を「勉学以外の教育の他のどの部分」と訳した多田先生の訳が正しいのか,が今回の争点です.

肝心の多田先生の訳への指摘について,不十分な点・疑問点があればご指摘お願いいたします.

(下線は筆者)

I rejoice in the decline of the old brutal and tyrannical system of teaching, which [55] however did succeed in enforcing habits of application; but the new, as it seems to me, is training up a race of men who will be incapable of doing anything which is disagreeable to them. I do not, then, believe that fear, as an element in education, can be dispensed with; but I am sure that it ought not to be the main element; and when it predominates so much as to preclude love and confidence on the part of the child to those who should be the unreservedly trusted advisers of after years, and perhaps to seal up the fountains of frank and spontaneous communicativeness in the child’s nature, it is an evil for which a large abatement must be made from the benefits, moral and intellectual, which may flow from any other part of the education.

 

 

多田先生の訳文の一部

恐怖心は一つの害悪となり,その為に,教育の,勉学以外の他のどの部分からも流出して来る可能性のある利益、つまり道徳面・知的面での教育成果に大いなるマイナスをもたらさずには居ないものである。

 

 

今回の結論

■結論① "any other than"は「勉学以外の」ではなく「(ミルの父が教育を強制するために使用したような)教育における『恐怖(による害悪)』以外の要素(側面)」のことである

■結論② "a large abatement must be made"のmustは義務的に解釈すべきである

 

 ■下線部まで

引用文は,勤勉な習慣を強制する(enforcing habits of applicatioin)ことに成功していたとはいえ,昔の野蛮な教育法が廃れているのは喜ばしいという部分から始まります.一方,新しい教育法では自分の気に入らないものを学ぼうとしない人間が排出されるという懸念ももっており,「恐怖」は教育の一要素としてなくてはならないと述べています.ただし,「恐怖」が教育の主要な部分を占めてはいけないとして,以下,教育における「恐怖」が行き過ぎ,教育者(親)への信頼や愛情・子供の話好きな性質が妨げられる場合には,「恐怖」は害悪になってしまうといいます.

では,どのような害悪なのかについて記述したのがfor which以下となります.

 

■"any other part of the education"の候補探し

文章の流れは以下のようになっています.②bが下線部です.

①「恐怖」は教育の一要素として欠かせない(an element in education)

② しかし,「恐怖」が教育の主要な要素になり,(②a)の程度まで優勢になってしまうと害悪(②b)になってしまう.

②a 教育者(親)への信頼や愛情が欠け・子供の話好きな性質が抑圧される

②b "any other part of the education"からもたらされる利益(道徳面・知的面での利益)があったとしても,害悪のために、大きく差し引いて考えなければならない("a large abatement must be made").

 

恐怖が教育の一要素ということは,裏を返せば他にもいろいろな要素があることです.そして文章は教育という一要素が大きくなりすぎた場合に何が起こるかを議論していますから,流れを踏まえれば教育の他の部分(any other part)というのは「恐怖(による害悪)以外」の部分という可能性が高いでしょう

 

では,なぜ「他の(other)」という表現をしたのでしょうか.

ここで下線部の関係節内(②bに該当)を書き直すと以下のようになります.

a large abatement must be made from the benefits(, moral and intellectual, which may flow from any other part of the education) for an evil(≒fear)

make an abatementは削減するという意味ですが,私はこの部分を「教育全体の評価をするため,the benefitsからan evilによる悪影響の分だけ差し引かなければならない」という意味だと考えました.

例えば,教育全体の成果(benefits)を評価するとします.恐怖による管理が行き過ぎた場合,教育者(親)への信頼や子供の自発性が失われるなどによる恐怖の害悪(an evil)の影響が 「マイナス150」だとします.恐怖による害悪以外の側面(学業や道徳を含め)の教育成果はあるでしょうから,例えば「プラス200」とします.プラスの部分("the benefits, moral and intellectual, which may flow from any other part of the education for an evilに"対応)だけ見ると教育成果は大きく見えますが,実際は恐怖による悪影響を計算に入れていないため過大評価になってしまいます.合計すると教育成果は200-150= 50になるからです.

 

つまり,恐怖の与える悪影響が分かっている状態で,全体の教育成果を算定するために,「教育における恐怖(による害悪)以外の側面(要素)の影響」から「教育における恐怖の影響」のマイナス分を差し引くということです.

 

教育全体の成果を評価するためには,ミルや読者がmake a large abatementを行う必要があるという解釈になるため,mustは「~しなければならない」という義務的な解釈をすべきということになります.

 

したがって,私は"any other part"の第一候補を「教育における『恐怖(による害悪)』以外の要素(側面)」としました.

 

つまり,教育の一要素として,「恐怖(による強制)」は必須だが,「恐怖」の占める割合が過度に大きくなると"害悪となり,その影響の分,"any other part of the education"からもたらされる教育効果を差し引いて考えなければならないということです.

 

■多田先生の解釈のロジック

一方,多田先生は下線部の候補として「教育における勉学以外の部分」を挙げています.確かに,この段落は主に教育(特に学問)の行き過ぎで生じる問題を扱っています.しかし恐怖による教育の弊害について語っていた場面で急に「教育における勉学以外の部分」の話になるだけでなく,さらにその効果の話にまで至るのは唐突ではないでしょうか.そもそも,「教育における勉学以外の部分」の教育成果(benefits, moral and intellectual)とは何を指しているのでしょうか?本来 "intellectual benefits"とされるであろう教育のメリット,「勉学」により得られた学識が the benefits, moral and intellectualに含まれなくなりますが,よいのでしょうか?

 

多田先生の解釈のロジックを私なりに推察しました.

まず,多田先生は「勉学」以外に限定した教育成果(benefits)を持ち出して,そこから恐怖による悪影響を差し引くという操作をおこなっています.仮に恐怖による教育が教育成果に与える影響を評価するとすると,教育成果をわざわざ,しかも唐突に「勉学」以外に限定して評価するのは不合理です.多田先生は,下線部では教育全体の成果が評価されているのではなく,恐怖によって勉学させることの害悪(例えば教育者(親)への信頼の欠如や自発性の低下によるものを含む)が勉学以外の面で大きなマイナスの影響を与えるということを主張していると考えたのでしょう.そうすると,「『勉学』以外の教育成果」は,恐怖による害悪が主に「勉学」以外の分野で大きなマイナスの影響を与えていることを示すためにわざわざ引き合いにだされたということになります.

この場合,恐怖による教育全体の成果を評価するというわけではなく,結果的にマイナスの影響を与えているということなので,多田先生のように"must"は"~であるはずだ"という認識用法で使用されていると考えるべきです.

 

(2020年10月30日 追記

2021年9月10日 修正

ここで私は日本語の「勉学」という単語を学問・学業も含めて論じていました。

"the benefits which may flow from any other part of the education"について、多田先生が日本語の勉学を「学業に励む」つまり"application"の意味で使っていると<仮定>すれば、otherは「application 以外」となります。"the benefits which may flow from any other part of the education"は、「『子供が受ける教育成果全体』ー『学問に励むことによって得られる教育成果』」になるわけです。一方で、私や永月様のように、otherを恐怖以外とすれば「『子供が受ける教育成果全体』ー『恐怖によって得られる教育成果(=学業に励むことによって得られる教育成果)』」 要は、最大限善意解釈した場合に 、otherの解釈が違っても、結果として"the benefits which …"の中身が同じになるのだから、完全に的外れとは言えないのかもしれません。

 

とはいえ、私は「勤勉な習慣/勉学」はあくまでも「教育の一要素としての恐怖」からもたらされるものであり、(「教育の一要素としての恐怖」に由来する)教育のbenefitの一部だと解釈しています。たとえば、父親が子供を怖がらせて、その結果勉強する習慣がつくということです。したがって、"the benefits, moral and intellectual, which may flow from any other part of the education"の、"other part of the education"は「教育の一要素としての恐怖」以外の側面を指しているという解釈が適切だと考えています。)

 

■文脈の確認

ここで,ミル自伝の文脈を確認しましょう.

引用文前後はミルが受けた教育を一般論も交えて解説しています.

引用文を含むパラグラフの前半ではミルの父の厳格さが描写され,やさしさを感じられなかったという記述もあります.途中は割愛しますが,引用文につながる部分は以下のようになります.

 As regards my own education, I hesitate to pronounce whether I was more a loser or gainer by his severity it was not such as to prevent me from having a happy childhood. And I do not believe that boys can be induced to apply themselves with vigour, and what is so much more difficult, perseverance, to dry and irksome studies, by the sole force of persuasion and soft words. Much must be done, and much must be learnt, by children, for which rigid discipline, and known liability to punishment, are indispensable as means. It is, no doubt, a very laudable effort, in modern teaching, to render as much as possible of what the young are required to learn, easy and interesting to them. But when this principle is pushed to the length of not requiring them to learn anything but what has been made easy and interesting, one of the chief objects of education is sacrificed.

The Collected Works of John Stuart Mill, Volume I -Autobiography and Literary Essays - Online Library of Liberty

 

 

英才教育を受けたミルは,自分の受けた教育を振り返り,子供の教育には厳しいしつけや罰は不可欠だと述べています.

 

特に"any other part of the education"の候補探しに影響するような情報はありませんでした.

 

■草稿の確認

ミル自伝には初期の草稿があり,ネット上のミル全集で読むことができます.興味深いことに,ミル自伝では比較的一般論・客観的にも見える書き方をしていた部分が,草稿ではミル自身の主観的な体験であったことが鮮明になります.(下線は筆者)

 

I thus grew up in the absence of love and in the presence of fear: and many and indelible are the effects of this bringing-up, in the stunting of my moral growth. One of these, which it would have required a quick sensibility and impulsiveness of natural temperament to counteract, was habitual reserve. Without knowing or believing that I was reserved, I grew up with an instinct of closeness. eI had no one [613] to whom I desired to express everything which I felt; ande the only person I was in communication with, to whom I looked up, I had too much fear of, to make the communication to him of any act or feeling ever a matter of frank impulse or spontaneous inclination. Instead of a character whose instinct and habit are openness, but who can command reserve when duty or prudence require it, my circumstances tended to form a character, close and reserved from habit and want of impulse, not from will, and therefore, while destitute of the frank communicativeness which wins and deserves sympathy, yet continually failing in retinence where it is suitable and desirable.

Another evil I shared with many of the sons of energetic fathers. To have been, through childhood, under the constant rule of a strong will, certainly is not favourable to strength of will. I was so much accustomed to expect to be told what to do, either in the form of direct command or of rebuke for not doing it, that I acquired a habit of leaving my responsibility as a moral agent to rest on my father, my conscience never speaking to me except by his voice. The things I ought not to do were mostly provided for by his precepts, rigorously enforced whenever violated, but the gthings which I ought to do I hardly ever did of my own mere motion, but waited till he told me to do them; and if he forbore or forgot to tell me, they were generally left undone. I thus acquired a habit of backwardness, of waiting to follow the lead of others, an absence of moral spontaneity, an inactivity of the moral sense and even to a large extent, of the intellect, unless roused by the appeal of some one else,—for which a large abatement must be made from the benefits, either moral or intellectual, which flowed from any other part of my education.

 

 

引用1つ目の段落では,ミルが父親に対する愛情に欠け,むしろ恐怖を感じていたことや,その結果としてコミュニケーションをとらなくなり,共感性も欠けていったことが描かれています.また,引用2つ目の段落では,父親の精神的支配のために萎縮し,道徳的にも知的にも自発性を失い,指示待ち人間のようになった姿が描かれています.

草稿では引用した段落より少し前に,父親の教育は「行動すること」より「知ること」に偏重していたという記載があり,恐怖が教育における一要素であるという記述こそないものの,引用した段落はいずれも,大きな恐怖をもたらしたミルの父親の教育による弊害について述べています.また,最後の文では,もともと"for which a large abatement must be made from the benefits, either moral or intellectual, which flowed from any other part of my education"のwhichは(恐怖を伴う)父親の教育の結果としてミルの自発性を抑圧し,道徳的にも知的にも不活発になったという悪影響(害悪)を指しており,「それ以外(any other part)で・・・」という部分は「道徳的・知的に不活発になったという(恐怖による害悪)以外の面でどのように道徳的・知的に教育成果があったとしても,(道徳的・知的に不活発になったという害悪によって相殺されるため)差し引いて評価すべき」と解釈できます.

ミルの過去の話をしているわけですが,"a large abatement must be made"というミル自伝と同じ表現が使われています.mustは過去に「~したはずだ」という意味を表すことができないので,やはり現時点での評価としてメリットを差し引いて考えることを「~しなければならない」という義務的な用法だと捉えるべきでしょう.

 

上記の引用よりややさかのぼりますが,ミルの父親の教育方針がうかがえる部分も引用します.

Indeed, my deficiency in these qualities caused the results of my education to appear, in some respects, less advantageous than they really were, since it made my acquisition of those active and practical capacities which my father’s discipline did not in the same degree provide for, slow and imperfect. The education he gave me was, considered in itself, much more fitted for training me to know than to do.

 

まとめますが,草稿では,ミルの父親の教育は抑圧的・自発性を損なうものであり,メリットもあったがデメリットが大きかったというところが強調されています.やや強制や自発性の低下に重点があるようです.

 

■多田先生の解釈の問題点

 まず,問題の段落では確かに「勉学」を中心に教育における恐怖の利用が論じられていますが,多田先生の解釈ではなぜ最後に(恐怖ではなく)「勉学」との関係で"other"が使用されたのかという先行文脈との関連が不明瞭になっています.

一方,私の解釈では,先行文脈で教育の一要素としての「恐怖(による害悪)」について論じられていたため,"any other part of the education"が「教育における恐怖(の害悪)以外の要素」であるということが明瞭になっています.全体としては,恐怖による害悪による悪影響を無視して教育効果を過大評価すべきではないという意味になります.

草稿ではやや主張の展開が異なるものの,"for which"のwhichが直接ミルの父親の(大きな恐怖を伴うような)熱心すぎる教育による弊害(a habit of backwardness, an inactivity of an inactivity of the moral sense and even to a large extent, of the intellect)を指しているようですから,otherは前述の弊害以外を指しており,「勉学以外」と解すべきではないように思われます.最終版ではこの弊害・害悪(an evil)は「恐怖」のことですから,これも私の解釈の傍証になると思われます.

 

次に,mustの解釈については上述した通り,多田先生の解釈であれば「(大きなマイナスがある)はずだ」という認識用法が適切であり,私の解釈であれば「(差し引いて評価)すべき」という義務的な用法が適切となります.個人的にはそもそも「a large abatement must be made from benefits for ...」という表現に評価の意味が含まれるため,義務的用法と解すべきだと思いますが.草稿を参照することで,認識用法ではなく義務的用法で使用したと解釈すべきであると裏付けられたと思います.

 

■最後に

ミルが父親に感じた恐怖と抑圧的・強制的な教育は表裏一体ですが,草稿と比べミル自伝では「恐怖」に重点を置いた構成となっています.また,いずれにしても"any other part of the education" を「勉学以外の教育の他のどの部分」とする解釈を支持するような場面はありませんでした.

2か所,多田先生の訳のうち誤訳と考えられる部分を指摘させていただきました.

多田先生の訳への批判について,もしも不十分な点・疑問点があればご指摘お願いいたします.

誤解されたくないのですが,思考訓練自体は非常に良い本であり,多田先生の読解や解説も優れていますので洋書や洋画を正確に理解できるようになりたいと思う方には全員読んでいただきたいと思っています.