英文解剖学

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薬袋善郎 ミル『自由論』原書精読への序説への疑問① 譲歩節のmight

(2021年10月25日 id:all_for_nothingさんとの議論をもとに論点を整理し、後半に追記しました。また本文後半を中心によりわかりやすく整理し直しました。) 

(2021年9月19日 薬袋先生の意図したmightの解釈には問題がないと考えられたため、大幅に加筆修正しました。

(2020年5月11日 加筆修正)

 

ミル『自由論』原書精読への序説(ミル精読序説) (1-2-05) P. 73 では以下の部分が取り扱われています.

The struggle between Liberty and Authority is the most conspicuous feature in the portions of history with which we are earliest familiar, particularly in that of Greece, Rome, and England. But in old times this contest was between subjects, or some classes of subjects, and the Government. By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers. The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled. They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest, who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed, and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

The Collected Works of John Stuart Mill, Volume XVIII - Essays on Politics and Society Part I (On Liberty) - Online Library of Liberty

 

 

■結論① やや古い文章では主節が過去系列の譲歩節の中でmightが使用されることも多かった.

■結論② 譲歩節のmayは仮定法現在,mightは仮定法過去の代用形と説明する文法書もある

■結論③ 現在でも主節が過去系列で、過去の文脈に基づいたwhatever譲歩節において、mightが使用されることがあるが、「過去の視点から見た(現在・未来の)純粋な可能性」を表しており、「現在の視点からみた過去の可能性」を表す"might have 過去分詞"とはニュアンスが異なるという仮説が成り立つ

■結論④ 薬袋先生の解説ではtimelessな疑問に対する返答として,whatever節でmightが使用されたとされているが,単純に過去の文脈に基づきに譲歩をしたためにmightを使用しただけではないか.

 

 

■薬袋先生の解釈

自由と権力のせめぎ合いについて説明した文章です.2文目以降は過去の支配者と支配される側の関係について説明しています.

 

薬袋先生は最後の文のwhoseから始まる節について,以下のように記述しています.

 

この副詞節は,「最高権力の圧倒的な行使に対してどんな予防措置が(そのとき)取られたとしても」という「過去の状況」を表しているのではありません.この意味であればmight have been takenでなければなりません.

ミル精読序説 p.75

 

*ミル精読序説では,別の個所(1-4-02)で18世紀頃には"might"が過去に対する現在の推量(要はmay/might have beenによる推量と同じ意味)を表現するために使用されていたことに触れられています.今回取り上げた部分は譲歩のmightなので混同してはいけないと書かれています.

 

ここでは,whatever節が先行訳で「(過去に)予防措置が取られとしても)」と訳されていることも触れています.

 

さて,薬袋先生によると,この文章は"whose ... to contest"の後にtimelessな「『読者が抱くであろう一般的な疑問』」(昔の人は圧制に対する予防措置を取っていたのだから,意義を唱えたと言えるのではないか)を想定し,timelessな「一般的な表現("whatever .... might be taken" =予防措置がとられるとしても)」(圧制の予防措置を取るとしても,それと支配者の最高権力に異議を唱えることは別物だ)で答えたとのことです.

 

この文章に隠れている部分を薬袋先生が明示した文章は以下のようになります.

whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, there might be some people who argue that men endeavoured to restrain its oppressive exercise, and suspect that to act so is to contest their supremacy, but whatever precautions might be taken against its oppressive exercise, that does not mean that men are contesting their supremacy in itself

 

■譲歩節のmightは「過去の状況」を表せないのか

上記引用文の"whatever ... might be taken ..." が,現在の読者を想定したtimelessな一般的な表現だとすれば,mightをmayに置き換えできるように思います.しかし,これに関しては,置き換えるべきではないと考えます.

 

まずこの部分の(見かけの)主節は過去形です.安藤貞雄先生の現代英文法講義(17.3.5.1. [B])には主文が過去系列の場合に叙想法過去(いわゆる仮定法過去)の代用形としてmightが使われる旨の記載があります.

例文としては真の仮定法過去とmightによる仮定法過去の代用形が挙げられています.もっとも,現代英文法講義は譲歩節の中の"may"も仮定法現在の代用形と捉えています.

"It was a short interview, if there were any interview at all." (The Valley of Fear by Doyle 

"However tired he might be, he never stopped working."

 

 

ちなみに,Declerck and Reed のConditionalsには,仮定法過去を使用した丁寧用法の条件節と事実を表現する帰結節の組み合わせについての解説があります.下の例は帰結節が過去時を指している文です.

 [It felt like I was trapped by the club and my only way out was to go and play in Europe. I am delighted with the West Brom move because] I always wanted to stay in this country if it were possible. (COBW)

 

上のような形で仮定法過去が使われる場合,通例丁寧用法の"were"は現実とは異なる理論上の世界の話をしており,過去の時間を指すのではないと分析されています.譲歩のmightも仮定法過去の代用に由来するとする考え方を取れば,同様に説明できるかもしれません.しかし,上述の例は内容的には過去の出来事について譲歩が起きていますし,仮定法過去wereを過去時を参照するwasと交換することもしばしば可能です.

 

Declerckによる現代英文法総論の12.4.6.2では,「譲歩節でmay, mightが用いられ,場面を事実に基づいてというよりは推定的(理論的)な事柄として表すことがしばしばある」との記述があります.注意2の2bでは譲歩節に伴う節が過去を表す場合,「may(あるいは,控えめなmight) +完了形」で同時性を表すという記述があります.ここでいう同時性とは譲歩節に伴う節との同時性(絶対的な時間だと過去)だと思われます.またこの場合,mightが,原形とともに用いられる場合があるとの言及があり,以下の例が挙げられています.

Impatient though they might be to go home, they did not say anything.

The trip might be expensive, but it was extremely interesting.

 

上記のように譲歩節に伴う節が過去時を示す場合,現代でもmightが使用されることはあります.以下の例でも譲歩節のmightは過去の文脈に基づいて譲歩をしていると考えてよいのではないでしょうか.

 

The Emperor’s policy, however, was largely idiosyncratic and driven by his mercurial nature. As a Bonaparte, he never felt comfortable cooperating with Austria, whatever raison d’état might dictate. 
Diplomacy by Henry Kissinger

 

 It seemed desirable to try to achieve some agreement with Germany on Central Europe, whatever might be Germany’s aims, even if she wished to absorb some of her neighbours; one could in effect hope to delay the execution of German plans, and even to restrain the Reich for such a time that its plans might become impractical in the long run.

Neville Chamberlain CAB 27/626/F.P.(36)40 

そもそも,予防措置を取る("might be taken")主体は「過去の」民衆("men")ですし,「過去の」支配者の("its")権力の乱用を防ぐのが目的ですから,過去の文脈なのは間違いありません。と思われます.薬袋先生がいうように,timelessな「一般的な疑問」に答えるために,"might have been taken"ではなく"might be taken"を敢えて使用したというより,単に(見かけの)主節が過去形であったため,(主節と同じ過去の文脈に基づく)譲歩節で当時は普通に使われていたmightを選んだというだけではないでしょうか.

 

この記事を書く前後で、ネイティブとやりとりした際に、「今回のwhatever節のようなmightが『過去に起こったかもしれないこと』の譲歩」なのはおかしい、過去を指すなら"might have 完了形"のはずだ」という意見がありました。id:all_for_nothing 様とのやりとりを契機に、以下の仮説を追記することにしました。

 

◾️過去文脈における譲歩のmight = 「過去の視点からみた現在・未来(またはtimeless)」説

 

whatever節の譲歩を過去の文脈で使用する場合、いくつかの選択肢があります。A「(現在、または特定の過去の時点から見てさらに)過去にどんな◯◯があったとしても」B「過去の視点(主節)から、さらに過去にどんな◯◯があったとしても」 C「過去の視点(主節)から見た『現在や未来』にどんな◯◯があろうと」 Bは might have 過去分詞 が使われるでしょうし、Aはmight have 過去分詞が好まれるかもしれません。しかし、mightもCの意味ならば過去に関する譲歩で使用できるのではないか、ということです。

All these were matters in which Vernon, whatever he might think and whatever he might say, had no part.

The Navy In the War of 1739-48(1920) by Richmond

 

当記事でも引用した文ですが、これは明らかに過去の人間Vernonを参照しています。上述のCに基づけば、「主節(All these matters were ...)の表す過去の状況から見て『現在(主節と同じ時間)または未来』にVernonが(その問題について)何を考えたり言う(言った)としても」となります。さらに、「主節の表す過去の状況から見て、特定の時間にこだわりがない場合はtimelessとも言えるかもしれません。 この考えに基づけばwhatever節も、(主節の過去から見た視点で『現在・未来』に、どんな予防措置が取られるとしても・・・」となり、ある意味timelessとも言えます。とはいえ、視点は主節の過去に拘束されるため、先行訳同様に「取られたとしても・・・」としても間違いとは言い切れないと思います。

 

Vernonは引用元の書籍が執筆された時にはすでに死去しており、内容的にもwhatever節の内容は明らかに著者や読者から見て過去の話ですが、上記「過去の視点からみた現在・未来の可能性」という考え方と矛盾はしません。著者や今回のミルの文でも、主節で過去の支配者や統治権の話をしており、whatever節でも過去の被支配者が取り得た予防措置について言及されていることについては、私が相談した範囲のネイティブとは概ね合意は取れています。

薬袋先生とやりとりした結果、どうやら薬袋先生は"whatever precautions might be taken"は過去の文脈に基づいていることを踏まえた上で、mightは過去の文脈をtimelessに拡張していると捉えていたことがわかりました。つまり、mightは過去の文脈と完全に切り離された一般論ではなく、「(過去の)被支配者が予防措置をもし取るとしたらどうなるのか」という純粋な可能性を表現しているということです。一方、「might have 過去分詞」は現在から見て過去、あるいは過去の基準時からみてさらに過去(大過去)というニュアンスが強いため、過去文脈の譲歩におけるmightと「might have 過去分詞」を区別したということのようです。

 

この解釈であれば、ネイティブの意見とも一致しており、特に異論はありません。

ただし、近代において譲歩のmightが「『might have 完了形』と同じような意味で使用できなかったのか?」ということは今後も調査が必要だと思われます。

 

■いくつかの用例

All these were matters in which Vernon, whatever he might think and whatever he might say, had no part.

The Navy In the War of 1739-48(1920) by Richmond

 

First: there has existed, for all who were accounted citizens,—for all who were not slaves, kept down by brute force,—a system of education, beginning with infancy and continued through life, of which whatever else it might include, one main and incessant ingredient was restraining discipline.

A System of Logic by Mill

 

上記用例も、「過去の視点からみた(現在・未来)の純粋な可能性」で説明できそうです。

 

ただし、既に引用したDeclerckの書籍中の例文は説明しづらいと考えられます。

The trip might be expensive, but it was extremely interesting.

 

■本当に「頭が良すぎる人の文体」でいいのか?

再度薬袋先生が補完した文章を引用します(太字が補完された部分).

whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, there might be some people who argue that men endeavoured to restrain its oppressive exercise, and suspect that to act so is to contest their supremacy, but whatever precautions might be taken against its oppressive exercise, that does not mean that men are contesting their supremacy in itself.

薬袋先生によると,この書き方は一見無茶にみえますが、whatever節を見れば何が言いたいのか分かるそうです。薬袋先生は「頭が良すぎる人の文体」と表現しています。

本当に頭の良い人特有の書き方なのでしょうか?

 

そもそも、whatever節の譲歩は以下のような流れがあります。

A: 譲歩節の内容

B(補完): 譲歩節の内容がいかなるものであっても主節の妥当性には影響しない

C:主節の内容が成立する

 

例えば、以下の文では、A: 彼らの真の姿がどんな風に見えたとしても、B:Aの内容はBに影響しないので、C: ハロウィーンは子供達にとって本当の自分を受け入れる素晴らしい機会であるとなります。

halloween actually brings with it an incredible opportunity to encourage your children to embrace their authenticity, whatever that looks like.

what to do when your son wants to be a princess for halloween. (hint: have fun!) 

by Lisa Kenney

https://www.usatoday.com/story/opinion/2021/10/25/halloween-costumes-gender-play-disney/6141332001/?gnt-cfr=1

 

 

形式上、主節も譲歩節も現在形であって一般論となっており問題ありません。

前後の文脈上も、LGBTや異性装に理解がない親が、ディズニープリンセスの仮装をしたいという息子にどう対応すべきかという記事ですから、文脈上もおかしなところはありません。

もう一点、形式と文脈の交差する点ですが、whatever節の譲歩は、「一見AがCの妨げになるように思われるかもしれないが」という場合に使われる場合が多いということです。AがCの障害になるということが全く想定されないような場合、AとCが明らかに無関係な場合にはわざわざ譲歩をする必要がないからです。一見無関係だがAと繋がりのある命題が隠れている場合も例外としてあり得なくはありません。(■帰結節の欠けた条件節・譲歩の副詞節 の"even if"の例文を参照)

 

では、ミルの文章はどうでしょうか。

 

they consisted of a governing one, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest, who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed, and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

 

A: 譲歩節「過去の被支配者達が過去の支配者の統治権の抑圧的行使に対してどんな予防措置を取ったとしても」

B: AはCの妥当性を損なわないので

C: 主節「過去の被支配者が支配者の統治権に異議を唱える」が成立する

 

という流れが予想できるので、B:「(過去の被支配者が)仮に『統治権の抑圧的行使に対する予防措置』を取るとしても『統治権自体への異議を唱えた』とはいえない。」

 

という内容が容易に復元できます。

形式上は、主節(whose節)が過去形で過去の支配者・被支配者の関係を論じているため、譲歩節の内容も過去の支配者・被支配者について論じていると考えて矛盾しません。また、譲歩節"its oppressive exercise" のits は"whose supremacy "のことであり、whoseは(過去の)支配者・支配者集団のことですから、譲歩節が過去の支配者・被支配者の関係を論じているということの裏付けになります。

mightは「過去の視点からみた(現在・未来の)純粋な可能性」としましょう。

 

形式・文脈面からさらに追及しましょう。歴史に詳しい読者は、「例えばマグナカルタのような統治権に制約を与えた史実は統治権へ異議を唱えたことにならないのか」という突っ込みをするかもしれません。しかし、 「過去の被支配者達が過去の支配者の統治権の抑圧的行使に対してどんな予防措置を取ろうとも、それだけでは統治権自体に異議を唱えたことにはならない」という内容はその反論になっており、Aが一見Cの妨げになるように思われるが、実際には妨げにならないのでCが成立するという典型的な用法になっています。

読者の中には、whatever節を読む前に、ミルが想定した仮想の読者と同じような突っ込み・疑問を抱いた方も多いかもしれませんが、「ミルがそのような突っ込みを想定して先回りして批判したこと」は、このwhatever節を正確に読んで初めて分かることです。

 

■薬袋先生の補完と、当初私が薬袋先生の解釈だと考えていた解釈

 

薬袋先生の補完も見てみましょう。

 

whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, there might be some people who argue that men endeavoured to restrain its oppressive exercise, and suspect that to act so is to contest their supremacy, but whatever precautions might be taken against its oppressive exercise, that does not mean that men are contesting their supremacy in itself.

薬袋先生によると、この文章は"whose ... to contest"の後にtimelessな「『読者が抱くであろう一般的な疑問』」(昔の人は圧制に対する予防措置を取っていたのだから,意義を唱えたと言えるのではないか)を想定して、timelessな「一般的な表現("whatever .... might be taken" =予防措置がとられるとしても)」(圧制の予防措置を取るとしても,それと支配者の最高権力に異議を唱えることは別物だ)で答えたとのことです。

 

この説明を読んで、当初私は、薬袋先生がwhatever節を「(過去の支配者・被支配者の関係ではなくではなく)一般の支配者・被支配者の関係について言及したと解釈したのではないかと思いました。そのため、mightは「過去の視点」からではなく、単に過去とは直接関係のない超時間的な(timelessな)可能性に関する譲歩だと考えていました。

 

実際薬袋先生の補完は、"to act so is to contest their supremacy"でisを使用したり、"that doesn't mean that ..." のthat節内で、行為解説の進行形とはいえ、areという現在形を使用していたりしています。また、whatever節内の動詞が仮にareでも成立するような補完になっています。

 

whatever節が過去の文脈と関係ない、「一般の支配者と被支配者の関係」に言及した完全な一般論とすると問題があります。

まず、流れはこうなります。

A: 譲歩節「(過去とは限らない一般の)被支配者達が(一般の)支配者の統治権の抑圧的行使に対してどんな予防措置を取ろうとも」

B: 「一般に、A『予防措置を取ること』は統治権自体に異議を唱えたことにはならない。」

B': 「Bは過去でもなりたつ」

C: 主節「過去の被支配者が支配者の統治権に異議を唱える」が成立する

 

薬袋先生の補完がそのまま使えますが、補完された結果の「A→B→B'→C」を読むと自然に思われるかもしれません。しかし、補完の対象は形式・文脈両面から復元可能でなければなりません。「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは、途中のプロセスを復元すればある程度論理的ですが、「風が吹けば」と「桶屋が儲かる」だけではあまりに関係が薄く途中のプロセスを復元するのは無理でしょう。つまり、補完された結果を見ると自然でも、原文からの復元可能性から見ると不自然という場合はあるのです。

主節が過去形で、内容的にも過去の支配者・被支配者の関係を論じているのに対し、譲歩節が完全な一般論という不一致があります。しかも、whatever節の内容は所詮「予防措置」に過ぎず、「命題」ですらありません。この文を完全な一般論とすると譲歩節は書きかけの一般論に出てくる名詞句であって、AとCは明らかに関係が薄く、そもそもwhatever節の典型的なパターンではないのです。もちろん、文脈上の助けがないわけではないですし、譲歩節には文脈が強さ隠れたロジックを補うべきものもありますが、「AとC」から「A→B→B'→C」と補うのは不自然といえるでしょう。

 

例を挙げると、

「たとえどんなに頑張って練習していたとしても、彼がアテネオリンピックで金メダルすることはなかっただろう。 」

という文であれば、過去に「(彼が)頑張って練習していた」のであれば、一見オリンピックでの成功に繋がるようにみえます。この繋がりが予想できるからこそ、実際には「彼がオリンピック」で金メダルを取れなかったたことには変わりがない。」という主節の内容から、「どんなに頑張っていたとしても、主節の内容を妨げなかった(オリンピックで金メダルは取れなった)」という」譲歩節と主節の間の関係を自然に補完できます

 

 

これが、「(過去とは関係のない一般論として)どんなにたくさん練習するとしても、彼はオリンピックで金メダルを取れなかった」であれば、「(一般論として)たくさん練習する」という部分と「金メダルを取れなかった」という過去に関する帰結とは直接繋がりがありません。 もしも、元の文の譲歩節が「そもそもどんなにたくさん練習するとしても、オリンピックで金メダルを取るのは難しい(ので)」という一般的な理由であれば、「どんなに練習しても金メダルをとることは難しい」という一般論から、過去においてもこの理由は成り立つので、「金メダルを取れなかった」という主節との関係は明らかです。

 

 

ここで、「(一般論として)どんなに練習しても金メダルを取るのは難しい」という内容自体は常識であったり、文脈から予想できる内容であることが重要です。また、これを補った文「(一般論として)どんなに練習しても、金メダル取るのは難しい。だから彼はオリンピックで金メダルを取れなかった」という補完の結果も論理としては自然だということにも着目してください。  

つまり、論理の補完を必要とする表現に置いて、補完の自然さや妥当性を評価するために必要なのは、

1. 補完の内容が文脈内外から予想できるものであるか

2. 補完された結果の内容が自然で妥当性があるか

この両者に加えて

3. 元々の文の形式上、補完の内容が自然に復元可能であるか

という条件が必要になるということです。

 

それゆえ、「金メダル」の例文や、「(私が当初薬袋先生の解釈だと考えていた)whatever節を完全な一般論と捉える解釈」では「譲歩節が一般論の断片にすぎず、そもそも関連性に乏しいので『主節を一見否定するようにみえ』ない。および、それゆえ譲歩節と主節の関係から『(譲歩節の帰結である)一般論』を復元することが困難である」という部分が「3. 元々の文の形式上、補完の内容が自然に復元可能であるか」に抵触するため、成立しないと考えます。

とはいえ、薬袋先生の回答書では、mightについて「the timedを含み拡張したtimeless」という表現をされていました。つまり、mightについて、「過去」の文脈を踏まえて、「過去の支配者」が取り得る予防措置の「(過去の視点での現在・未来の)純粋な可能性」をmightが表現しているという解釈と思われます。ということであれば、私の解釈と変わらないわけですが、上記USA Todayの引用からもわかるように、何らかの反論を想定した先回りの反論は珍しいものではなく、むしろ典型的な用法とも言えます。

 

■帰結節の欠けた条件節・譲歩の副詞節

 

whateverという譲歩の節を一種の条件節と捉えると,帰結節は一見  "... did not venture..." に見えますが,「統治権の抑圧的行使に対して予防措置が取られるかどうか」が直接「支配者が最高権力を握っていたことに過去の人々が異議を唱えてはいなかった」につながっているのではありません.「過去の被支配者が予防措置を取るとしても、それは必ずしも統治権に異議を唱えるということにはならない」という隠れた帰結節があると考えると,主節(厳密にはwhoseから始まる関係詞節ですが)との関係が明確になります.

 

ややタイプが異なるかもしれませんが,例えば以下の例をみてください.「今の計画の成否」は「代わりの計画を用意して待っている他の銀行がある」ことに影響するわけではないため、そのままではつながりがわかりません.「今の計画が失敗したとしても」と「代わりの計画を用意して待っている他の銀行がある」の間に「希望は残るはずだ,というのも」という隠れた帰結節を補完するとつながりがはっきりします.("Even if ... unlikely"と"there is"の間に"there will still be hope for them because"を補完する)言い換えると、見かけの帰結節が隠れた帰結節の理由になっています。

 

[Things at last seem to be looking up for the thousands of long-suffering State Building
Society depositors.] Even if the present scheme falls through—which now seems unlikely—there is a City merchant bank now waiting quietly on the sidelines with an alternative scheme in its pocket.

Conditionals by Declerck and Reed

 

今回のwhateverに近いのは以下の例でしょう。ここでは、隠れた帰結節が見かけの帰結節を導く理由となっています。

(788) If she called yesterday, I was out at the time. (Dancygier 1998: 166)

(=‘If she called yesterday I was out at the time. I conclude this because I knew nothing of her having called’.) 

Conditionals by Declerck and Reed

■まとめ

薬袋先生に疑問点をメールで質問したところ、丁寧な返信をいただきました。薬袋先生の解釈に疑問を持って記事を書きましたが、当初想定していた薬袋先生の解釈は誤解であり、薬袋先生のmightの解釈は正しいと考えてよいということが分かったため、記事を大幅に修正しました。薬袋先生に対しては失礼いたしました。

譲歩のmightは過去の文脈で使用可能です。少なくとも現代英語においては、譲歩のmightと"might have 過去分詞"でニュアンスが異なるものの、「過去の意味」としたように見える先行訳が間違っているとまでは言えないと思います。薬袋先生は書籍において、先行訳は全てmightを「過去の意味」としていると述べ、自分の解釈と区別しています。しかし、紹介された訳のうち、世界の名著の訳文は「人々も、たとえその抑圧的行使に対してはどのような警戒策をとろうとも、支配者たちの覇権にあえて挑もうとはしなかったし、またおそらくそうしたいとも思わなかった〔名著〕」という形になっており、薬袋先生の解釈との違いがほとんどありません。

とはいえ、ここは先行研究がほとんどない分野ですので、紙幅の限られた参考書の解説について問題点を指摘するよりも、薬袋先生の着眼点に敬服したいと思います。

過去の文脈における譲歩のmightについて情報をお持ちの方はコメントで情報提供いただけると幸いです。